2025/07/01 10:18
とある週末、ノームズがいつものように駅に向かったので、僕は急いで後を追った。彼は歩くのが恐ろしく速い。僕は時折小走りになりながら、やっとの思いで彼と同じ電車に乗り込んだ。
昼下がりの地下鉄は乗客がまばらだ。気づかれないよう隣の車両からノームズの姿を注視した。すると彼は週刊誌の車内刷りを見てニヤケているではないか。何がそんなにおかしいんだ。僕もその見出しを知りたかったが、ノームズからは一瞬も目をそらせない。読みたい気持ちを抑え、ノームズが降りるのを待った。
ノームズは動物園のある駅で降りた。1番出口を上がったところにあるパチンコ屋の角を左に曲がり、高架下をくぐり抜けていく。その先は長いアーケードで、二度漬け禁止の串カツ屋が並び、火縄銃でコルクを飛ばす屋台や老人が血眼になってボードゲームをする遊戯場もあって辺りは賑やかだ。しかしノームズはどの店にも見向きせずどんどん進んでいく。彼の足が止まったのはアーケードを抜けたときだった。頭上に巨大な塔がそびえ立っていたのだ。美しい鉄骨構造はまるでパリのエッフェル塔のようだ。僕がしばらく見とれていると目の前にいたはずのノームズがいない。しまった。僕は慌てて周囲を探した。するとビニールシートで覆われた立ち呑み屋の奥に彼はいた。
僕はノームズに気づかれないよう静かにのれんをくぐったが、店の主人が「兄ちゃん、そこどうぞ」と運悪くノームズの隣に僕を案内した。「君はここで一体何をしているんだ?」。ノームズはこちらを見ずに焼酎ハイボールをコップに注いだ。「それはこっちのセリフだよ。最近ひどく酔っぱらって帰ってくるじゃないか」と僕は壁の貼り紙にあったクラシックラガーを頼んだ。すると、会話に戻る間もなく一瞬で大瓶とグラスが運ばれてきた。仕方なく、ビールをグラスになみなみ注いで一気にそれを飲み干した。キンキンに冷えていて旨い。ノームズへの怒りが少し収まったように思えた。
「それにしても、ここには料理のメニューが無いけど、どうやって頼むんだい?」。僕は店内を見回しながら、ノームズに聞いた。ノームズはカウンターの上に2つあるショーケースを指さし、「そこに刺身や煮付けが並んでいるだろう。好きなものを主人に伝えればいい。それだけさ」とぶっきらぼうに答えた。
右側のショーケースにはブリ刺し、フグ皮、カニ身、きずし、たこぶつ、マグロの山かけなど生鮮類が三段ぎっしりと並ぶ。左側のショーケースはカレイの煮付けやナスの煮びたし、ポテサラ、練り天、冷やしトマトといった惣菜系。ビールが進みそうで心が湧きたった。
すると突然、ノームズが湯豆腐を頼んだ。「ちょっと待ってくれ。そんなのはショーケースにないじゃないか!」。僕が慌てて言うと、「君はただ眼で見るだけで観察をしていないんだよ」と言った。確かに、一升瓶が並ぶバックバーに「美味しいとうふ」と書かれた貼り紙があった。主人は厨房の隅にあるおでん鍋から豆腐をすくい上げ、花がつおをまぶしてノームズに差し出した。
見るからに柔らかそうだ。七味をドバっとかけるノームズの仕草を見て、僕はたまらず「一口くれないか?」とお願いした。ノームズは気前よく新しい箸を取ってくれた。柔肌の豆腐は箸ですっと切れ、口あたりもソフト。粗削りの花がつおはそれだけでもアテになる。
いい店だ。
しばしの余韻に浸った後、こんないい店を僕に黙っていたなんて。ノームズへの怒りがまたふつふつと湧き上がってきた。
「君が聞きたいことはわかってるよ」と、僕の心を読んだようにノームズはつぶやいた。「実は2週間ほど前にタレコミがあったんだ。常連客が『ぽん』と『ま』しか言わずに飲む店があるってね」
「『ぽん』と『ま』?たったそれだけで注文が通じるってことかい?」
僕はその呪文のような言葉を繰り返した。一体、何を意味しているんだろう。 「それで、その意味はわかったのかい?」と聞き返すと、ノームズは首を横に振った。
夕方5時を回った店内はほぼ満員だ。主人が一人動き回っている。しばらくして、店に1組のカップルが入ってきた。男は50歳前後で、ゴルフキャップにチェック柄のシャツというラフな出で立ち。女は男より少し若く40代前半だろうか。小柄でふっくらしたからだつきだ。二人は僕の隣に陣取った。そして、女が主人に向けていきなり「ぽん」を頼んだのである。
「え?」と思った次の瞬間。
厨房で「ぽぉん!」と勢いよく栓が抜かれた。
これが想像以上に大きかった。ウインブルドンで観たロジャー・フェデラーのスマッシュのように心地よい音だ。主人が女に渡したのは、ノームズと同じ焼酎ハイボールだった。
僕はとまどいながらノームズのほうに目をやった。ノームズは頷きながら、「『ぽん』の正体は知っていたさ。焼酎ハイボールの栓を抜くときの音だってね。問題は『ま』のほうなんだ」とそっけなく言った。
ノームズの推察が後出しのような気がしてならなかったが、試しに焼酎ハイボールを飲むことにした。目の前に氷とレモンスライスの入ったグラスが置かれ、その刹那、厨房で「ぽぉん!」と爽快な音が響き渡り、瓶が運ばれる。自分で注いで飲む焼酎ハイボールは、なるほど、甘さ控えめでキレがいい。これは和風のアテに合う。
焼酎ハイボールを2~3杯飲んだ。気づけば、僕は上機嫌で主人と談笑していた。主人は二代目で、コロナ禍の前は料理人を雇っていたが、今は営業を週末に限定し、一人で切り盛りしているらしい。店の創業はいつかと尋ねると、ノームズが横から「1956年だよ」とつぶやいた。「なぜわかるんだい?」と聞き返すと、「これは推量でもなんでもないさ。壁に貼ってある新聞記事に書いてあったんだ。ほら」と指さした。
記事には二代目通天閣と同じ年に開店したとあった。さっきのエッフェル塔のことだ。主人も相槌を打つように、「よくご存じで。こないだもお客さんが僕のことを『俺はおまえが三輪車に乗ってるときから知ってねん』って言うと、別のお客さんが『俺は乳母車のときから知ってんぞ』って。かないませんわぁ」
7時を過ぎた。僕の前には空瓶が5本転がっている。しかし、まだ「ま」の答えが出ていない。「ま」の情報を聞き出したくて、主人に常連客の話題を振ると、「中には結婚や昇進が決まると必ず報告しに来てくれる人がいたんですよ。定年後も来てくれて、飲み代より電車賃のほうが高つく、ゆうてね。でもしばらくはお見かけしませんね……」
話題を間違えた。場の空気が重たくなった。でも69年の歴史とはそういうことなのだ。もう一度「ぽん」が聴きたくなり注文する。いい音がする。「ぽん」は変わらない。しかし、人はみんな老いていく。3時間前の「ぽん」に感動した僕はもういない。ここにいるのは「ぽん」の味がわからないほどベロベロになった酔っ払いだった。
閉店まで1時間を切っている。これはマズい。ノームズは本当に「ま」の正体を突きとめる気があるのか。僕はしびれを切らし、「ま」のつく食べ物という理由から、マグロの山かけを頼んだ。そしてマグロの山かけが運ばれてきた瞬間、主人に「焼酎ハイボールを『ぽん』と呼ぶ以外に、マグロか何かを『ま』って頼む人もいるって聞いたんですけど?」と勇気を振り絞って聞いた。
すると主人は「まー? 聞いたことないですね。何でしょうね」と考え込んだ。
「え?
『ま』だから、マグロの刺身か山かけのどらちかでは……」
「聞いたことないねぇ」
すごく焦った。思いきって、主人に「ぽん」と「ま」で飲む常連の噂を話した。そのうえで「ま」の答えが知りたいと懇願した。
それでも主人は「ほんまにわからへん。でも、わからんくらいがいいんとちゃいますか。そのほうがおもしろいじゃないですか」と僕をなだめた。
「そんな、まさか……」。がっくりと肩をおとす僕にノームズが言った。
「よくやったよ、ワトスン君。『ま』が存在しないことを突きとめたのだから、まー、ええじゃないか」