2025/08/04 12:00

長いトンネルを抜けた。そろそろ着く頃だ。僕はカツサンドの空箱を捨てて新幹線を降りた。今日も岡山は雲ひとつない快晴だ。駅の東口から路面電車に乗り換えて一駅先へ。ノームズから連絡があったのはほんの2時間前のことだった。急に岡山まで来てくれなんてノームズの身に何か起きたのかもしれない。慌てた僕はすべての仕事を投げ出して駆けつけたのだ。

 

ノームズが指定した店をGoogle Mapsで確認すると赤いピンが立つ場所は3階建てのビル。1階にその店slowcaveがあった。入口の二重扉を開けると、とてつもない冷気が襲って来た。シベリアに繋がっているかもしれない。そんな不安が脳裏によぎったが、目を開けるとそこはワインボトルが並ぶセラー室だった。客が店のスタッフと談笑しながらワインを選んでいる様子を見るとここはワインショップのようだ。そしてセラーの奥にあるカウンターに見覚えのある顔を見つけた。

 

「大学生のときプロレスのインカレに入ってまして、そこでアキレス腱固めトーナメントを開いたんですよ。すると一人ヒールホールドをした奴がいましてね」

「マスター、そりゃあひどい。ヒールホールドを食らったら膝を壊しちゃうよ、はっはっは」

ノームズは店の主人と盛り上がっていた。

「急に呼んだくせにやけに悠長じゃないか。事件じゃないのかい?」

「まあまあ君も座って飲みたまえ。今日はこの店の7周年のお祝いさ」

ノームズによるとこのカウンターはワインショップに併設するスタンドで、主人に味の希望を伝えるとイメージに合ったワインを出してくれるという。僕は白ワインを注文。主人が3種類持ってきてくれた中からラ・カステッラーダ コッリオ2017と書かれたボトルを選んだ。

グラスに注がれた琥珀色のそれを一口飲んだ。

「何だ、これは」

シャープな酸と豊かなタンニン、ドライな果実味……。余韻がたまらない。何のために岡山に来たかなんてもうどうでもいいと思った。ふとノームズを見ると湯呑みでビールを飲んでいた。

「何をしてるんだ、君。ワインの店でビールなんて大変行儀が悪いぞ」

僕は正義感をふりかざしてノームズを叱責した。

「知らないのか?備前焼で飲むビールは最高なんだよ」とノームズはご機嫌そうだ。

「備前焼?」

「うちでは一陽窯の焼締を使わせてもらっています」と主人。

「君も少し飲むかい?」

ノームズからグラスを渡されて飲んでみると、すごくクリーミィーで麦の甘みが口いっぱいに広がった。旨い。

「なんでこんなに口当たりがまろやかなんだろう」

「なーに、簡単なことさ。備前焼は釉薬を使わずに焼いてるから表面に無数の小さな穴ができるんだ。そこにビールを注ぐときめ細かい泡が立つってわけさ」

「味に丸みがでますよね」と主人も嬉しそうに言った。

ノームズは僕からグラスを引き取ると、僕の耳元でこう囁いた。

「君が聞きたいことはわかってるよ。実は知り合いの社長から依頼があったんだ。若手の男性社員が岡山に出張したあと、みんな目の色を変えて岡山支社への異動願いを出すから困っている。その原因を調べてくれとね」

「それでなぜ僕をワインショップの周年祝いに呼んだんだ?」

「今まさにその原因がわかったからさ」

「まさかこの店に通うために異動願いを出してるっていうのかい?」と僕が冗談めかして言うと、「そうだ」とノームズは真顔で答えた。「ちょっと待ってくれ」。椅子からずり落ちた僕はパニックになった。「原因はワインだけじゃないさ」とノームズは続ける。

「ワトスン君、昨年のM-1グランプリで令和ロマンがやった漫才を覚えているかい?」

「あー、あの小学校の教室の席の位置的に最強の名字はワタナベさんってやつだろ?」

「そうだ。出席番号順に席が決まるとき先生の教卓から最も離れ、教室の角をとり、山本などと秘密のコミュニティを築き、青木や赤城やらの失敗を糧に冷静な発言を繰り出すワタナベ」

「それがこの店と関係があるのかい?」

「マスター、失礼ですがお名前は?」とノームズが聞いた。

「ワタナベと申します」

「いや、それはただの偶然じゃないか。だってあの漫才のワタナベは漢字が難しいほうのワタナベだって……まさか」

「マスター、ワタナベのナベってどう書きますか」と僕が聞くと、

「しんにょうに自分の自、わかんむりに八を書いてその下に口です」という答えが返ってきた。

僕の背筋は凍りついた。

「でも、マスターの名字が渡邉だったからって男たちの異動願いと何の関係あるっていうんだ」

僕の頭はパンク寸前だ。

「君はまだわからないのか?あの漫才で最強の名字が渡邉だと知った男たちはどういう行動に出ると思う?」

「渡邉という名の奥さんを……捜す?」

ノームズは間髪を入れず、

「マスター、失礼ですがお子様はいらっしゃいますか?」

「娘が二人います」

「嘘だろ。婿入り志願者が異動願いを出しているっていうのかい。どうやって気づいたんだ?」

「いや、なに、さっきまでいた客が昨日からここにアルバイトに入ってる女性の名前が珍しいという話をして盛り上がってたんだ。そのときマスターの名字を聞いてピンと来たんだ」

「だからと言ってM-1グランプリとは繋がらないだろう。偶然かもしれないし」

「君は知らないだろうが、この店は毎年M-1決勝の日に臨時休業をとっている。こんな人気店にもかかわらずだ」

「なに?年の瀬の忙しい時期に?」

「昨年はスタッフに店を任せてマスターだけが休んでいた。つまりマスターは無類のお笑い好きなんだよ」

僕はたまらず、「マスター、すみません。好きな芸人はいらっしゃいますか?」と聞いてしまった。

するとマスターは「10億円というコンビが好きでしたね。昨年解散しちゃいましたけど」と残念がった。あまりにマニアックな答えに再び背筋が凍りついた。ノームズの言うとおりだ。

「もしかして令和ロマンの漫才はマスターのアイデアで、“渡邉”で一時代を築こうとして令和ロマンにあの漫才をさせたってことかい?」

「そんなわけないだろ。令和ロマンだって人生が懸かってるんだぞ」

ノームズは珍しく語気を強めた。

「ワトスンさん、おもしろい推理ですけどそれはないですよ」とマスターにも笑ってツッコまれた。

昼間に来たはずなのに時計を見ると閉店時刻の9時を回っていた。「四天王時代の全日本プロレスは好きですね。秋山が5番目で。当時の全日って2.99の応酬なんですよ」。マスターのプロレス愛が深すぎてノームズと二人我を忘れるほど呑んでしまった。ロゼも赤も呑んだのに記憶がない。気がつくとカウンターは男女問わず一杯になっていた。そりゃあ男に限らず通ってしまうはずだ。マスターが客を見送りに行ったとき、女性スタッフが僕のグラスに水を注いでくれた。

「そういえばあなたは昨日からアルバイトで入った……」

「はい。八幡垣と申します」

「やわたがき」

「島根に20人もいない名字なんです」と彼女は微笑んだ。

小学校の教室で渡邉などと秘密のコミュニティを築く可能性のある、いい名字だ。

「八幡垣さん、僕と結婚してくれませんか?」

気がつくと僕は彼女に婿入りを志願していた。

「やめたまえ、ワトスン君。飲みすぎだ。帰るよ」

ノームズに首根っこを掴まれたのはこのときが初めてだった。